ヴァイオリンの次の次くらいに料理をするのが好きな小日向かなでだったが、なぜかキッチンは鬼門であることが多い。特に、こういった色々な人間が使うことを前提とした寮などの台所は、小柄な彼女にとっては使いにくいことこの上ないのだ。
「……ん――っ。も、ちょっと……っ……なのにぃ」
息を詰め、つま先立ちになって精一杯腕を伸ばすが、どうしたって上から二段目の棚には手が届かない。それでもシンクの端に掴まって身体を支えながら腕を伸ばしていると、不意に背後から「なに……してんだ?」と怪訝そうな声が聞こえてきた。
驚いたかなでは慌てて振り返ったが、無理な体勢で足の筋を伸ばしていたところへ急にひねりを加えたものだから、案の定ふくらはぎが攣ってしまい、浮かべていた笑顔がひくりと引きつった。
「……ったぁーいっ!」
「小日向!?」
かなでの悲鳴に、今度は入口で怪訝そうな表情を浮かべて突っ立っていた火積司郎が驚いた表情を浮かべ、その場にうずくまるかなでに駆け寄った。そしてかなでが驚くよりも早く彼女の足首をつかむと、真剣な顔でかなでを見つめた。
「捻ったのか? どこが痛むんだ?」
「あ。え…と、ちょっと、攣っちゃっただけだから。だ、だいじょ、ぶ……」
火積に触れられた足首がやけに熱くて、かなではしどろもどろになりながら視線を伏せた。彼女の顔がどんどん上気してくる様子に火積は一瞬眉をひそめたが、すぐに自分が彼女の足に無遠慮に触れていることに気がつき、慌てて手を引っ込めると、かなでの熱が伝染したように顔を真っ赤に染めた。
「すっ、すまねぇっ!」
「……うん」
こくりとうなずくかなでの髪から、シャンプーの柔らかい香りがふわりと立ち上る。それが鼻孔を甘く刺激して、火積はますます顔を赤らめると、思わずかなでから視線を逸らしてしまった。
そうしてしばらくかなでは顔を伏せ、火積は明後日の方を向いて、お互い顔の熱が早く引かないかと焦っていたが、先に顔を上げたのはかなでの方だった。
「あの……ごめんね、びっくりさせちゃって」
「……いや。もう、平気か?」
「うん……立てると思う」
小さくうなずくかなでを見つめ、火積は一瞬躊躇うように視線を動かした。しかしすぐに、まだ顔に僅かな熱を残したままで、彼女にそっと手を差し伸べた。
「……掴まれ」
彼の言葉に、かなでは弾かれたように顔を上げた。そして驚いて見開いた目に嬉しげな光を湛えて、伸ばされた火積の手をゆっくりと握った。
「ありがと、火積くん」
黙ってただうなずいてから、火積はかなでの腕を支えて立ち上がった。そしてかなでがほっと息を吐くのを確認すると彼女の手を離し、シンクの上の棚をちらっと見上げた。
「ところで……あんた、なにしてたんだ?」
火積の問いに、かなではまた顔を上げた。そして火積と視線が合うと、困ったような笑みを浮かべながら軽く肩をすくめた。
「えっと……そこの、二段目の網を取りたいなぁって思って」
指差された方に目をやった火積は手を伸ばすと、かなでがどれだけ頑張っても届かなかった網の持ち手を簡単に掴み、彼女の前に差しだしてみせた。
「こいつか?」
「そう! わぁ、ありがとう!」
笑顔で火積から網を受け取り嬉しそうな歓声を上げたかなでだったが、なぜかすぐに眉をひそめたかと思うと、不満そうに軽く口をとがらせた。
「なんか……悔しいなぁ」
「…?」
「だって、私が一生懸命頑張っても全然届かなかったのに、火積くんってば簡単に取っちゃうんだもん……ずるいよ」
そう言ってため息をつくかなでを、火積は驚いたような表情でしばらく見ていたが、やがて目を細めるとくくっと咽喉の奥を鳴らして笑った。
「んな、どうしようもねぇことで怒ったって仕方ねぇだろ」
「そ、そうだけど……もぉっ! そんなに笑わないでっ」
自分でも馬鹿なことを言ったと思ったのだろう。かなではほんのりと頬を染めながら、抗議するように火積を上目遣いに睨んだ。 その表情がやけに可愛らしくて、火積は思わず息を呑んだ。だがそのおかげで笑い声も引っ込んだので、かなではほっとした表情を浮かべ、すぐにまた笑顔になった。
「でも、ほんとにありがとう。今度からは横着しないで、ちゃんと踏み台を用意するね」
「……ああ。そのほうがいい」
『――いつも、俺が側にいるってわけじゃねぇんだから』
そう続けようとした火積だったが、かなでの笑顔を見つめているうちにそれは心の中に溶けて消え、口を突いて出たのはまったく違う言葉だった。
「今度は……足が攣る前に俺を呼べ。あんたの側にいる間は、俺が踏み台の代わりになってやる」
火積の言葉に、かなでは呆然とした表情で彼を見つめ返した。そして次の瞬間、花が綻ぶような笑みを顔全体に浮かべると、こくりとうなずいて火積を見上げた。
「うん。そうするね」
かなでの素直な答えに、火積はくすぐったそうな笑みを浮かべて視線をわずかに逸らす。その横顔をかなではにこにこと笑いながら見つめた後で、手の中の網に視線を落とした。
「でも、よかった。私ね、ちょっと心配なことがあったんだ」
「心配?」
怪訝そうに火積が答えて振り返ると、かなでは「うん」と言いながら、もう一度軽くうなずいた。
「今からだと、もう私の身長って伸びないと思うんだよね。でもそうすると将来、ちょっと困るじゃない」
「困る?」
「そう。たとえば、お嫁に行った先のお台所の棚が高かったら使いにくいなぁって」
そう言って難しそうな表情を浮かべるかなでを、火積は呆れたような表情で見おろした。
『今から、そんな心配してどうすんだ? 女ってのは、突拍子もねぇこと考えんだな』
自分とはまったく違う思考回路を持つかなでをまじまじと見つめてしまった火積だったが、ふと顔を上げた彼女が次に告げた言葉に、驚いて顔を引きつらせた。
「でも、もう心配しなくていいよね。だって困ったら、火積くんに頼めばいいんだもの」
「――え?」
無邪気に言い放ったかなでは、自分の発言がどんな意味を持つのかをいまいち理解していないらしい。屈託のない笑みを浮かべたままの彼女を前にして、逆に火積の脳内はぐるぐるとフル稼働し始めた。
『――将来、小日向が嫁に行った時に、俺が側にいるってことか? ってことは、つまり小日向が俺、の…………』
「火積くん?」
黙ったまま急に顔を赤らめた火積に驚いたかなでは、彼に駆け寄るとその顔を不安げに見上げた。かなでの顔が間近に迫った所為で、ついに想像力がオーバーヒートしてしまった火積は、シンクの端によろけるように掴まった。
「きゃっ! だ、大丈夫?」
「あ……ああ。き、気にすんな。ちょっと立ちくらみ、起こしただけ、だ…」
心配そうに覗き込んでくるかなでの視線に色々な意味で耐えられなくなって、火積は顔を逸らすと深いため息をついた。