ヴァイオリンアイコン

やっと笑ってくれた

 

「はーっ……ビックリした」

駆け込んだ軒先から空を見上げ、かなでは大きく肩を落とした。そして隣を振り返って「こんな急に降り出すなんて……」と苦笑しながら呟いたのだが、すぐに驚いたように動きを止めた。

かなでの見ている前で丸めた上着を広げた火積は、包んでいたヴァイオリンケースを目を細めて確認し、やがて安堵したのか小さく息を吐いた。

「……大丈夫みてぇだな」

つぶやいて顔を上げた火積はヴァイオリンケースをかなでに渡そうとしたが、彼女がぼおっと自分を見つめている事に気がついて怪訝そうに眉をひそめた。

「小日向……?」

火積の声を聞いたかなでは、そこでようやく我に返り、火積と差し出されたケースを交互に見比べて顔を真っ赤に染めた。

「あ……っ。あ、ありがとうっ!」

言いながら受け取ったヴァイオリンケースを抱きかかえるかなでの赤い顔を見た火積は、やがて眉をひそめると低い声をさらに落とした。

「濡れて熱でも出たんじゃねぇのか……ヴァイオリンじゃなく、あんたに上着貸してやればよかったな。……悪い」

するとかなでは弾かれたように顔を上げ、赤い顔をしたまま何度も首を振ってみせた。

「ううん! 火積くんはヴァイオリンが濡れないようにって思ってくれたんだもん。それはすごく嬉しいよ!」

「だが、あんたの具合が悪くなっちまったら意味ねぇだろ。いくら楽器が無事でも…」

そう言って火積がきまり悪げに首の後ろを掻くと、かなではヴァイオリンケースをぎゅっと抱きしめてまた首を振る。

「ううん違うの。濡れてちょっと気持ち悪いけど、でも具合は全然悪くないから。えっと、その……私が、赤くなってるのは、そうじゃなくて……」

語尾が小さくなったかと思うとまた顔を赤らめ、きまり悪げに視線を落とすかなでの態度に、火積はまた眉をひそめた。するとかなではちらりと上目遣いに彼を見上げてから、蚊の鳴くような声を漏らした。

「前髪下ろしてる火積くん、初めて見たから。なんか、かっこよくてドキドキしちゃって……」

無言でかなでをまじまじと見つめていた火積だったが、彼女の漏らした言葉から数秒遅れて同じように顔を真っ赤に染めた。そして視線をかなでから逸らすと目を細めて眉をひそめ、深いため息をつきながら頭を掻いた。

「そ、そういうことを、軽々しく言うなって言っただろうが」

「でも、ほんとのことだもの……あ、で、でもね! いつもの火積くんだってすごく素敵だし、そ、その……かっこいいって思ってる…けど」

「……勘弁してくれ」

額を右手で押さえ今にもその場にうずくまりそうになる火積の態度に、最初は困ったように眉をひそめていたかなでだったが、やがてくすりと小さな笑い声を立てた。 そこでようやく火積も彼女の方へ視線を戻して、一瞬恨めしそうに彼女を見たが、すぐに口元に軽い笑みを浮かべてゆっくりと空を見上げた。

「夏の夕立だからな……すぐ止むんじゃねぇか」

「うん……そうだね」

かなでも同じように空を見上げて呟くと、火積を振り返って微笑んだ。

「ね? 寮に帰ったら、ヴァイオリンを守ってくれたお礼をしたいんだけど。なにがいい?」

「……別にいらねぇよ」

苦笑しながら火積が言うと、かなではほんの少し口を尖らせた。

「でも、上着をそんなに濡らしちゃったし……」

「どっちにしろ、あの雨だ。なにをしようと濡れただろうよ……だから、あんたが気にすることじゃねぇ」

「そうかもしれないけど……でも私、火積くんにお礼がしたいんだもん」

拗ねたように呟いて目を伏せるかなでの頭を、火積は唖然とした表情を浮かべて見おろした。

「……小日向」

呼ばれてかなでは顔を上げ、すがるような目を火積に向けた。

わずかに潤んで見えるかなでの瞳に、火積は思わず息を飲んで見つめ返すと、かなでは抱えていたヴァイオリンケースをゆっくりと下ろしながら、火積の方へ一歩歩み寄った。と、そこで火積がびくりと肩を震わせたかと思うと、みるみるうちに顔を赤らめて目を逸らし、びしょ濡れの上着をばさりとかなでの頭に乗せた。

「きゃっ! 冷たっ!」

かなでの悲鳴を聞いてはっとした火積はあわてて振り返ったが、すぐにまた彼女から視線を外し、まるで怒っているようなうめきに近い声を上げた。

「きっ、気持ち悪いかもしんねぇが辛抱してくれっ! んなカッコで、帰すわけにゃいかねぇからよっ!」

「……え?」

火積の言った事が理解できず、かなでは深緑の学生服を頭からかぶったまま首を傾げた。が、そのまま視線を自分の身体に落とし、制服の白い部分から下着がうっすらと透けているのを確認して「きゃあっ!」とまた悲鳴を上げた。 その声に火積もまたびくりと肩を震わせ、やがて恐る恐るかなでを振り返ると、ちょうど火積の学生服を頭から落として身にまとったかなでと視線が合ってしまい、お互いに顔を赤らめてそっぽを向いた。

「……」

「……」

そうしてしばらく無言で立ち尽くしていた二人がようやく菩提樹寮に戻ったのは、夕立が止んでだいぶ経ってからだった。

おわり