――くそっ。ちっとも寝られやしねぇ。
いつもは布団に入るとすぐに瞼が落ちてくるのだが、今夜はベッドに寝転がってかれこれ一時間は経ったというのに、まったく眠気が来ない。見慣れた天井をしばらく睨みつけていた火積司郎だったが、やがて大きなため息をつくとゆっくり身体を起こした。
ぱさりと額に落ちてきた前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら立ち上がると、暗闇の中で目を細め机に向かう。使い慣れた椅子を音を立てないように引いてそこに腰を下ろすと、身体を屈めるようにしてため息をつきながら左手で首の後ろを撫でた。
「……ったく。緊張するってガラじゃねぇだろ」
自分自身に呆れながら毒づいた火積だったが、急に暗闇の中で鳴りだした小さなベルの音にびくりと身体を震わせた。
慌てて顔を上げ、机の上に無造作に置かれたまま音を立てながら震えている携帯に手を伸ばすと、指先が触れた途端に音と震えがぴたりと止んだ。
手にした携帯のフタを開くと、光がぱあっと目に飛び込んでくる。その眩しさに目を細めながら、火積は届いたばかりの受信メールを確認して、口元に微かな笑みを浮かべた。
from:小日向
title:もう寝ちゃった?
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遅くにごめんなさい。なんだか寝付けなくて。
でも明日(もう今日だね)は早いから、頑張って寝ることにします。
お休みなさい。
「……頑張る、ってもんじゃねぇだろ」
くっくと声を殺して笑った火積はメール画面を閉じると、登録してある電話番号を呼びだした。2回コール音が鳴った後、伺うような小さな声が耳に響いてきた。
「……もしもし?」
「どうした? 寝られねぇのか?」
「……うん。ごめんね、起こしちゃった?」
「いや。俺も、なんとなく目が冴えちまっててな」
「そう……おんなじだね」
言って小さく笑うかなでの声は、相変わらず耳に心地良い。やけに緊張した身体と心がすっとほぐれるのを感じて、火積は思わず小さなため息を漏らした。すると電話の向こうでかなでが、ほっと息を吐くのが聞こえた。それからくすっという小さな笑い声とささやきが続いた。
「ありがとう」
「なにがだ?」
首を傾げて眉をひそめて問うと、かなでは電話の向こうで笑みを浮かべたらしい。
「火積くんの声を聞いたら、なんだかほっとしたの。うん、ぐっすり眠れそう。だから……ありがとう」
「……そう、か」
真っ直ぐに好意を向けてくれるかなでの物言いに、最初は照れ臭くてただ戸惑っていたが、今ではそれにもすっかり慣れ、正面から受け止められるようになっていた。
「俺も、あんたの声を聞いて安心した。だから、おあいこだ」
「…うん」
携帯を握りしめて嬉しそうに小さくうなずくかなでの姿が見えたような気がして、火積は目を細めた。すぐにでも彼女の側に飛んでいって華奢な身体を腕の中に閉じこめたいという衝動が湧いてきたが、拳をぎゅっと握りしめてそれに耐えると、ゆったりとした笑みを浮かべながら口を開いた。
「じゃあ、な。ちゃんと寝とけよ」
「うん、お休みなさい。火積くんも、ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「……ああ。わかってる」
うなずいて携帯を耳から離そうとした火積だったが、そこで何か思いついたように再び携帯を耳に当てると「小日向!」と小さく叫んだ。
「え? な、なに?」
驚いたような声が耳に届くのを確認した火積は、そっと目を閉じて口をつぐんだ。やがて意を決したように目を開けると、暗闇の中で頬を赤らめながら口を開いた。
「おっ、俺はあんたを必ず幸せにする。だから、これからもずっと俺の側に……い、いてくれっ」
「……うん」
僅かな沈黙の後で、かなでの消え入りそうな声が火積の耳と心に響く。思わずほっと肩の力を抜くと、かなでが「じゃ、じゃあ。本当にお休みなさい!」と慌てたように付け足し、それからすぐに携帯から漏れる音は回線を閉じた電子音に変わってしまった。
切れた携帯電話をぼおっと見つめ、火積は盛大なため息をついた。大仕事をやり終えた後の心地よい脱力感に酔ったすぐ後、自分の発言を思いだすと、今度は顔が火照って仕方がなかった。
せっかくかなでの声を聞いて落ち着いたというのに、これではまたしばらく眠れそうにない。
「今更……なに言ってんだ、俺は」
舌打ちをしながら髪を乱暴に掻き、そのまま立ち上がろうとしたところ、手の中で携帯が再び鳴りだした。驚いて見ると、また携帯の震えはぴたりと治まった。
from:小日向
title:最後のメールです
表示された題名にぎくりと身体を震わせた火積だったが、本文を読み進めるうちにほっとしたようなくすぐったいような複雑な表情を浮かべ、ついには顔を真っ赤に染めて頭を垂れた。
from:小日向
title:最後のメールです
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私は火積くんが大好きです。ずっと側にいたいです。
これは『小日向かなで』からの、最後のお願いです。
そして火積くんと一緒にいることが私の幸せだから、
火積くんはもう私を幸せにしてくれてるんだよ。
だからこれからも、ずっと私と一緒にいてください。
私がいつまでも幸せでいられるようにしてください。
これが『火積かなで』からの、最初のお願いです。
それと、これからは火積くんを名前で呼ばなきゃだよね?
慣れるまで間違えることがあるかもしれないけど、頑張ります!
「ったく……頑張る、ってもんじゃねぇだろ」
呟いて苦笑した火積は、おもむろに携帯の彼女の登録情報を『小日向』から『かなで』に修正した。