「日野ちゃん、日野ちゃんっ!!」
バタバタという元気な足音と聞き慣れた声に、香穂子は立ち止まって振り返った。
「火原先輩。どうしたんですか?」
そう香穂子が問いかけて首を傾げるのと、火原が彼女の前に立ち止まって腕を伸ばしたのはほぼ同時だった。
「ちょっと一緒に来て!」
言うと火原は香穂子の右手の手首をぎゅっと握り、その行為に驚いた彼女が「え、ええっ!?」と声を漏らすのをまったく無視したまま、その手を引っ張って再び走り出した。
「せ、先輩っ!」
廊下を火原に腕を引っ張られた状態で走りながら香穂子は、周りから注がれる好奇と驚きの視線を受け、決まりが悪そうに目を伏せながら頬を赤らめた。
『こんなとこ天羽さんに見つかったら、またいろいろ詮索されちゃうっ!』
好奇心で目を輝かせる新聞部員の顔を思い浮かべつつ、心の中で溜息をつく香穂子とは対照的に、火原は楽しそうな表情を浮かべながら、階段の手すりを利用して器用に方向を変えた。
「あ、あのっ! どこ行くんですか??」
「屋上だよ! 早く行かないと!」
そう言うと火原は、階段を二段飛ばしで駆け上がり始めた。その足取りは軽やかでスピードがあったが、手を引かれた状態の香穂子にとってはたまったものではない。
「ひゃあ! ち、ちょっと待ってくださいぃーーっ!!」
火原と同じ速度を無理矢理要求された彼女は、それでも最初こそ必死でついていっていたが、やがて中三階の踊り場に辿り着いたところで目を回したような情けない悲鳴を上げた。
「ひ、ひはらせんぱぁーいっ! ちょ、ほんと、まっ、てっくだ……」
がくん、と後ろに腕を引っ張られた火原は、そこでようやく足を止めて振り返った。そして、階段に腕をついてうずくまる香穂子の大きく上下する肩を見おろし、驚いて目を大きく見開くと我に返ったように慌てだした。
「わ! 大丈夫!?」
返事もできずにうつむいて、大きく息をする香穂子の前に火原はしゃがむと、彼女の顔を覗き込んで不安げな表情を浮かべた。
「……って、大丈夫じゃなさそうだね……ごめん」
火原の消えそうな声を聞いた香穂子は、なんとか落ち着いてきた胸元を押えながら、ゆっくりと顔を上げた。そして目の前でうなだれた火原の肩越しに見えた風景に、驚いたように目を見開いた。
「わぁ……虹が……」
「……え」
香穂子の言葉に火原も顔を上げると、ゆっくりと自分の肩越しに後ろを振り返り、踊り場の窓から空を見上げた。
「あ……」
ぽつりと呟いた火原はゆっくりと膝を落とし、その場に正座をしてしまった。そうしてふたりは階段の踊り場で向かい合って座ったまま、空に広がる七色の風景に心を奪われていた。やがて虹の輪郭がぼんやりと薄れたかと思うと、それはみるみるうちに青い空に溶け出し、現れたときと同じような唐突さで、大気の中に吸い込まれるように消えてしまった。
思いがけない雨上がりの天体ショーの余韻に浸っていた二人だったが、やがて火原ははっと我に返ると、香穂子の方に向き直って上体を乗り出し、彼女の肩を両手でがしっと掴んだ。
「そう、そうだよ! 日野ちゃん!」
「な、なななんですか!!??」
火原の興奮した様子に、香穂子は顔を引きつらせつつ身を引こうとしたが、両肩をしっかりと掴まれてしまっていて身動きが取れない。
『せ、せんぱいっ! か、顔がっ、ち、ち、近いですぅっ!!』
緊張して身体を強張らせる香穂子の様子になどまったく気がついていないのか、火原は「あのさ……」と呟くと、香穂子の目をじっと覗き込んだ。
『ひゃああああっっ!!』
香穂子が心の中で絶叫した途端、火原はまさに「無邪気な笑顔」を浮かべて口を開いた。
「そうそう。俺、虹を見せたかったんだよ」
「…………は?」
きょとんとした表情を浮かべた香穂子が呟くと、火原はもう一度にこりと笑い、床についた膝の上に降ろした手を乗せた。
「音楽室で練習してたらさ、窓から虹が見えて、それがすっごいキレイだったんだ。で、誰かに教えてあげたくって」
「はぁ……」
火原の言葉に香穂子は溜息にも似た声を漏らすと、彼の笑顔につられたように笑みを浮かべた。
『なんだ……誰でもよかったんだ……』
「きっと見晴らしのいいところに行ったら、虹が空いっぱいに広がって、もっとキレイに見えるんじゃないかって思ったんだよ。だから屋上に行きたかったんだけど……ごめんね、日野ちゃん。無理に走らせちゃって」
「い、いいえ」
そう言って香穂子は小さく首を振ると、火原に向って微笑んでみせた。けれど、自分の心がみるみるうちにしぼんでいくのを感じて、すぐに笑みを引っ込めるとそっと視線を落とした。
『そっか……たまたま、私を最初に見つけただけ、だったんだ……』
「日野ちゃん、立てる?」と言いながら差し出された火原の手を、香穂子は「大丈夫です」と微かに微笑みながらやんわりと拒否し、ゆっくりと立ち上がった。そして香穂子がスカートの裾を整えるためにうつむくと、その頭の上から火原の満足そうな吐息が漏れた。
「……でも、よかった。君がすぐ見つかって」
弾かれたように顔を上げた香穂子の前で、火原は照れ臭そうに笑いながら、頭の後ろで両腕を組んだ。
「誰かと一緒に見たいなって思ったらさ。真っ先に浮んだのが……日野ちゃんだったんだ」
「わた、し?」
「うん。探してるうちに消えちゃうんじゃないかってすごく心配だったけど、ちょっとでも一緒に見れてよかったよ。……屋上は無理だったけどね」
ははっ、と困ったように笑いながら頭を掻く火原をじっと見ていた香穂子は、やがて泣き笑いのような表情を浮かべて口元をゆがめた。
「屋上じゃなくて音楽室だったら……きっと、もっと長く一緒に見られましたよ?」
「うん。そうなんだけど……」
ぽつんと答えて軽くうなずいた火原は、言おうか言うまいか悩んでいるように、視線を床の上でうろうろさせていた。やがて決意したのか顔を上げると、香穂子の顔から僅かに目線を逸らしつつ、頬を右手の人差し指で軽くかいた。
「やっぱりさ。俺、日野ちゃんと見るんだったら……いっちばんキレイで最高の虹が見たかったんだよね」
「火原先輩……」
香穂子が思わず呟くと、火原は頬を真っ赤に染めて「あ、うん! でもホントごめんね! 何も言わずに走らせちゃったら、そりゃあ驚くよね! 俺、夢中で、そこまで考えられなくて、だから、その……」と、聞かれてもいない言い訳を必死でし始めた。
しばらくの間、香穂子はそんな火原を黙って観察していたが、やがてくすりと小さく笑うと手を伸ばし、彼の右手の指先をきゅっと握る。そして「え?」と驚く火原を見上げてにっこりと笑いながら、彼の手を引っ張ってゆっくりと歩き出した。
「先輩、もう練習は終わったんですよね。だったら……一緒に帰りませんか?」
空いっぱいの虹は見れなかったけど――空一面の夕焼けを、先輩と一緒に見たいから。
香穂子の微笑みと繋がれた指先を交互に見ていた火原は、やがてふんわりと微笑むと「うん。一緒に帰ろうか」と呟いて、伸ばしていた指を巻き込むように曲げて、彼女の手をしっかりと握り返した。