「雨は嫌い……」と彼女は言った。
「天で誰かが泣いているみたい。地上の誰かのために天が悲しんでいるみたい。だから雨は嫌い。悲しい気持ちになってしまうから……」
そう言って彼女は振り返り、悲しそうに微笑んだ。
だからそれから、俺も雨が嫌いになった。彼女を悲しませる、彼女に悲しい顔をさせる雨を嫌いになった。
「ちっ! 急に降り出しやがって」
すっかり曇った空を見上げ、アリオスは鬱陶しそうに眉をひそめる。だが、いつまでもこんな木陰で待っているわけにも行かない。この調子だと、待てば待つほど降りは激しくなりそうだ。
アリオスは首を巡らし辺りを見回したが、島の人間はこういった通り雨に慣れているらしく、事前に天候を察知したらしい。そんなに多くもないが少なくもない島民の姿が、今は何処にも見当たらない。
そしてアリオスの連れであるけばけばしい衣装を着た連中も、いつの間にか何処にもいなかった。
「あいつら……こういう時だけは行動が早いからなぁ」
うそぶいてみたところで事態は好転しない。意を決したアリオスは軽く舌打ちし、髪を右手でかき上げ木陰から歩みだした。途端に彼の身体を雨が濡らしていく。
だが、あれだけ躊躇っていたわりに、彼は駆け出したりはしなかった。黙って天を睨み、雨に濡れながらゆっくりと歩いていく。その姿はまるで、この雨で何もかもを洗い流してしまおうとしているようにも見えた。
アンジェリークは扉のきしむ音に振り返り、驚きで眼を大きく見開く。
「……ア、リオス?」
声をかけられた方も、まさかそんな空き家に人がいるとは思っていなかったから、こちらも驚いて息を飲んだ。だがすぐに目を細めると、他の誰もが想像できないような暖かい声音で答える。
「……いたのか」
「うん、雨宿りさせてもらおうと思って。そんなところに立ってないで、こっちに来たら? 奥の方が少しは温かいわ」
「……ああ」
アリオスは見えないくらい微かに頷くと、アンジェリークの声が聞こえる窓辺に向かった。空き家だから手入れがされていないらしく、彼が歩くたびに床がみしっと軽い音を立てる。
「床が少し古くなってるみたいだから気をつけてね。私、さっきそこで、木を踏み抜いちゃったの」
「ドジだな、相変わらず……」
アリオスは暗い室内でくすっと笑う。するとアンジェリークは見えない彼を軽くにらみ返す。
「もうっ! すぐそういう事言うんだからぁ?」
だが、くすくすと笑うアリオスの姿が窓からのわずかな光に照らされて浮かび上がると、彼女の眉間に寄っていた皺がすっと消える。
「やだ! アリオスったらびしょ濡れじゃない! そんな格好のままじゃ風邪ひいちゃうわよっ!」
そう言うと慌てて辺りを見回すが、なにせ空き家だ。タオルや布きれといった身体を拭くものなどあるはずはないし、当然、毛布や火といった暖をとるものさえない。しかもこの島は熱帯に属しているから、暖炉などといった暖房用器具もないのである。
アンジェリークがきょろきょろと辺りを見回し、何かないかとうろうろし始めるのを見ていたアリオスは、やがて右腕をすっと伸ばすとアンジェリークの右肩を掴む。
「いいからうろちょろすんな。また床踏み抜いて怪我したら、俺が面倒見なきゃならねぇだろ」
アンジェリークは、自分の肩にひんやりとしたアリオスの体温を感じて動きを止めた。そして身体を軽く後ろに引っ張られるような感じがしたかと思うと、彼の声が顔のすぐ横で聞えてくる。
「こうしてたら温かい。だから……動くな」
「ひどいわ。そしたら私が濡れちゃうじゃない」
「迷惑……か?」
アリオスのひときわ低くなる問いかけに、アンジェリークは視線を伏せて俯いた。そして彼の手に触れると、軽く首を振る。
「ううん……」
アンジェリークは自分の肩にかかる雫を黙って見つめていた。それはアリオスが呼吸するたびに、彼の髪を伝って自分の肩に零れ落ちていく。
それをじっと見つめていたアンジェリークは、不意に手を動かした。そして彼の髪に触れようとした途端、アリオスはおもむろに顔を上げて口を開く。
「お前……雨は好きか?」
「え?」
突然の問いかけにアンジェリークは上げかけた手を再び下ろす。するとアリオスはもう一度ゆっくりと言葉を発した。
「俺は雨は嫌いだ。暗くよどんだ空から降る雨を見てると、気分が悪くなる」
「アリオス……」
「誰かの涙を思い出してむかついてくる。だから……雨は嫌いなんだ」
吐き捨てるようにそう呟くと、アリオスはアンジェリークを抱きしめる両腕の力をほんの少し強めた。
しばらくの間、アンジェリークは俯き、黙ってアリオスの腕を撫でていた。やがてその手にきゅっと力を込めると、軽く息を吐きだし呟いた。
「私……嫌いじゃないよ。私は雨って嫌いじゃない」
アリオスはふと顔を上げる。その気配を感じたアンジェリークは、アリオスの手をそっと自分から外して窓辺に歩み寄った。そして流れる雲を見上げながら外に手を差し出した。
差し出されたアンジェリークの手は雨を受け、水滴が彼女の腕を伝う。その手をゆっくりと引っ込め、手の平に乗った雨の雫を見つめながらアンジェリークは口を開く。
「雨の日って外に出られないし、ジメジメしてるからあんまり気分が良くないのは確か。でもね、雨の後ってとっても世界が綺麗に見えるの。土は雨の恵みを受けてしっとりと落ち着いてるし、花や木は雨のおかげで、まるで清められたみたいに生き生きと輝いてるんだもの」
そう言うと、アンジェリークは自分の手の平で転がる水滴を窓の外にそっと落とし、くるりと振り返ったかと思うと、黙って自分を見つめるアリオスににこりと微笑みかけた。
「それにね、雨の後って虹が出るでしょ? とっても綺麗な七色の光が空いっぱいに広がるのを見るとね、雨って良いなぁって思えるの。だって雨の恵みがなくちゃ、世界ってこんなに綺麗にならないじゃない」
アンジェリークの言葉を聞いたアリオスは、ふっと目を閉じた。
『ああ、そうだ……こいつはやっぱり違うんだ』
彼女とはまるで違う。同じ顔、同じ声をしているというのに、中身はまるで違う。
雨は嫌いだと言った彼女。誰かの涙を思い出して悲しくなると目を伏せた彼女。
雨は好きだと言うアンジェリーク。恵みの雨は世界を綺麗に変えてくれるからと微笑む少女。
同じ人間ではないのだから、いくら似ていても同じはずがない。それでも、同じであったならと望む自分が心のどこかにある。
それは失ってしまった彼女を想い続ける心。
そして、同じでなくてよかったと思う自分。それは未来を見つめる少女と共にいることを望む心。
「雨、止まないね」
アンジェリークは座り込んだアリオスの隣にちょこんと腰かけ、彼の肩に軽く頭を預けた。
「アリオスは雨が嫌いなのにね。いつまでも止まないと余計に嫌になっちゃうよね?」
アンジェリークが溜息交じりにそう呟くと、アリオスは抱えていた剣を床に置き、空いた右手でアンジェリークの肩を軽く抱き寄せる。
「……ま、いいさ。こんな風にお前と静かに過ごすのも悪くねぇよ。少しカビ臭いけど、な」
アリオスの軽口交じりの物言いに、アンジェリークは軽く吹き出した。
「うん。床に穴が開いてたりとか、雨が漏れてたりするけど、たまにはこんな風に過ごすのも良いかもね」
「ああ。それに……」
アリオスは呟くと、天井を見上げてまだ少し湿っている髪をかき上げた。
「雨もそんなに悪くないって思えるようになったしな……」
「雨は好きよ……」と彼女は言う。
「雨の後の世界が好き。だって雨を受けた世界はキラキラ輝いているんだもの。そして清められたみたいに生き生きしてる。だからそんな恵みをもたらす雨が好き……」
そう言って彼女は振り返り、俺を見つめて優しく微笑んだ。