ラスト・チャンス

 

しんと静まり返った庭園を抜け、オスカーは冷えた夜空を見上げて、ゆっくりと息を吐いた。

このまま真っ直ぐ私邸に戻ろうかとも思ったが、身体の芯に残る気だるい酔いをすぐに消してしまうのがもったいなくて、オスカーは月を見上げながら微かに笑むと、屋敷とは逆方向へ足を向けて歩き出した。

どうせこんな時間に帰っても、待っている人などいない。

屋敷の者たちには降誕祭から新年にかけて休暇をとらせているし、残った老執事夫婦も、まさかオスカーが明け方前に聖地に戻ってくるなどとは思ってもいないだろうから、今頃は二人して、心地よい夢の中だろう。

なにせ今夜は降誕祭だ。庭園の木々には赤や青、色とりどりのイルミネーションが煌めき、ところどころに星や雪だるまのオーナメントや、降誕祭の夜に子供たちにプレゼントを配って歩くと言い伝えられている老人の人形と、彼の乗るソリを引くトナカイなどが飾られていた。

こんなことに精力を注いだのはきっと、金色の髪をふわふわと揺らして笑う、愛らしい女王補佐官殿だろう。

聖地でさえこんなに皆が浮き足立つ催しなのだから、発祥地である主星の賑わいや盛り上がりは、その比ではない。

確かに数年前までのオスカーは、聖地での降誕祭が終わると同時にこっそりと抜け出し、主星のいわゆる『盛り場』ヘと繰り出して、それこそ一晩中楽しく過ごしたものだった。だがその慣習は、ある一人の女性に出会ってから――その女性を終生守ると誓った時から、まったく行われないものとなった。

だから今夜もオスカーは、心地よい酔いを感じたところで早々に切り上げ、こうして聖地へと戻ってきたのだ。

賑やかな盛り場で数多の美しい女性達に囲まれて過ごす降誕祭よりも、彼女が住まうこの聖地で独り夜空の月を見上げ、彼の人を想って過ごす静かな時間を、彼は今年も迷うことなく選んだのである。

 

庭園を抜けると、そこには小さな教会がある。何代か前の女王陛下が建てたものだ。

彼女の実家はとある宗派の教会で、父親は神父だった。それは、いまこうして聖地を楽しい興奮で包んでいる『降誕祭』を祝う宗派で、聖地のこの風習も何を隠そうその女王が持ち込んだものだった。

だからと言って、彼女はその宗派を聖地の人々に強要するようなことはせず、ただ変化の少ないこの地に住まう人々に少しでも楽しみを与えたいという考えからであったらしい。

けれどその想い出のかけらを聖地の僅かな一角に「教会」という形で残したのは、なによりも尊き存在でありながら、誰よりも縛られている「女王」という地位に対しての、あるいはささやかな抵抗だったのかもしれない――。

そんなことを考えながら、オスカーは教会の階段を昇ると、ゆっくりと扉を押し開いた。

小さな教会の中に夜風がさあっと吹き込むと同時に、それまで祭壇の前にぬかづいていた人物がすっくと立ち上がると、くるりと振り返って、頭を覆っていたショールをそっと外した。

その顔を見た途端、オスカーは息を飲んだ。が、すぐに右手をすっと胸元に当てると、深々と頭を垂れた。

「これは、失礼いたしました。まさかに陛下が、このような場所にいらっしゃるとは思ってもおりませんでしたので」

「それは――わたくしもです。まさかこのような時間に貴方が来るなど、思ってもみませんでしたわ」

言ってからロザリアはくすりと笑うと「お互い様でしたね」と囁いて、もう一度ふわりと笑顔を浮かべた。

そんな彼女の様子を、顔を上げたオスカーは眩しそうに目を細めて見つめていた。だがすぐに表情を固くすると「ですが陛下、このような時間に出歩かれるなど、なにか火急の用件でもあったのですか?」と訊ねながら、ゆっくりと彼女のもとへ歩み寄った。

するとロザリアはすいっとオスカーから視線を外し、祭壇の向こう、正面の壁に据えられた聖母子の像を見つめて口を開いた。

「特になにも――ただ、今夜はここに来てみたかったのです。……わたくし、ひとりで」

「お一人で来られたのですか?」

オスカーが驚いて目を見張ると、対照的にロザリアは目を細めて微笑み、振り返らないまま小さくうなずいた。

「ええ、ひとりで。ここからわたくしの屋敷までは歩いてすぐですし、屋敷の大半のものにはすでに休暇を与えていますから」

「そのような問題ではありません。たとえどれほど距離が近かろうとも、女王陛下ともあろうお方がお一人で外出をなさるとは感心いたしません。それに……」と言いかけたオスカーを振り返ると、ロザリアは「優等生の女王陛下らしくない、とおっしゃりたいのかしら?」と彼の言葉の続きを奪い取り、絶句するオスカーを見ながらくすくすと笑った。

「ごめんなさい、こんな言い方をして。でも、こんな時間に一人でふらりと出歩くなんて……確かに、いつものわたくしらしくないかもしれませんわね」

「陛下……」

オスカーが呆れたように呟くと、ロザリアは再び聖母子像へと視線を向けた。そしてゆっくりと踏みしめるように歩を進めると祭壇に手を伸ばし、滑らかな木の板を確かめるようにそっと撫でた。

「夢を――思い出したのです。遠い昔、まだわたくしがほんの子供だったころ……父や母と聖なる夜を過ごしたころに、思い描いていた、夢を……」

そう言ってロザリアは、祭壇に手を触れたまま微かに振り返った。

「物心ついたころからの夢は、女王になることでした。でも、それは叶ってしまった。だから……かもしれません。忘れかけていた子供のころの、もう一つの夢を思い出してしまったのは」

「……それはどんな夢なのですか? もしおいやでなければ、ぜひにもお伺いしたいのですが」

オスカーはそう言うとゆっくりと歩を進め、ロザリアの立つ祭壇から数歩下がったところで、床に片膝をついて礼を取った。その姿を見つめていたロザリアは、一瞬だが寂しそうな表情を浮かべた。だが、すぐにすっと顔を上げると、微かな笑みを口元に浮かべた。

「本当に小さな子供の頃の夢ですわ。他愛ない、ささやかな……夢」

呟いてオスカーに背を向けると、彼女は教会の壁を彩るステンドグラスの天窓を見上げた。

「こんな小さな教会で、大好きな殿方の隣に立って、神の前で永遠の愛を誓うこと……それが、幼いころのわたくしの夢」

消え入りそうなほど小さな声で呟くとロザリアはすっと目を閉じ、天を仰いだままふふっと笑った。

「でも、もう叶わない夢になってしまいました。もうひとつの夢が……叶ってしまったから」

寂しげに呟くとロザリアは肩をすくめ、自分の感情を吹っ切るように柔らかく笑むと、祭壇から降りて数歩歩いてからオスカーの隣で立ち止まった。

「屋敷まで送ってくださる、オスカー? 貴方にこれ以上、心配をかけたくないから」

すると今まで頭を垂れていたオスカーがゆっくりと立ち上がり、ロザリアをじっと見おろした。そして彼はゆるりと腕を上げると、彼女が羽織っていたショールに手を伸ばし、それをロザリアの頭にそっとかけた。

「オスカー?」

怪訝そうに首を傾げるロザリアを見つめ、オスカーは微かに微笑むと小さくうなずいた。

「陛下のその夢、私が叶えて差し上げたいのですが……よろしいでしょうか?」

ロザリアは驚きで言葉を失ったがオスカーは気にした様子もなく、彼女の左手を取ると自分の右腕に絡ませて、ゆっくりと歩き出した。そして祭壇に昇ると彼女の腕を外し、改めてロザリアの両手を自分の大きな手で包むように握ると、見上げてくる深い碧の瞳をじっと覗き込んだ。

「汝――? 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しきときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死がふたりを分かつ時まで、これを愛し続けることを……誓いますか?」

オスカーの深く穏やかな声音に、ロザリアの瞳が揺れた。

「オスカー……」

そう呟くのがやっとのロザリアの頬に手を添えると、オスカーは温かい笑みを浮かべながら小さくうなずいた。

「ロザリア……愛している。君が何者であろうとも、俺は君を終生守り、君を敬い、慰め、たとえ死が訪れようとも、最後のひと息まで君を愛し抜くことを……ここに誓う」

そう言ってオスカーは、ロザリアの頭にかけたショールをそっと取り外した。まるで花婿が花嫁に、誓いの接吻を送るためにそのベールを外すように。

オスカーを見上げていたロザリアの頬を、美しい瞳から溢れた涙が幾筋も流れ落ちていく。けれど彼女は彼から目を背けることはなく、やがて輝くばかりの笑みを浮かべ、赤い唇をそっと開いた。

「……誓います。喜びも、悲しみも……すべてを貴方と分かち合うと。……オスカー、貴方を生涯愛し続けると……わたくしは誓います」

 

リーン……ゴーン……

その音は、聖なる夜の終わりを告げ、神の子の誕生を祝う合図だった。

けれども小さな教会の祭壇で、二人だけで誓いの儀式を挙げた彼らにとってその鐘の音は、お互いの前途を祝福する聖なる鐘の音のように思えた。

リーン……ゴーン……

冷たい冷気に包まれた夜の教会で、聖壇の前に立ったオスカーとロザリアは、聖母子像に見守られながら、鐘の音も聞こえないほど熱いキスを何度も交わし合った。

おわり