――いいこと、ロザリア。今日こそは、真っ直ぐに、目を逸らさずに。
逃げ出すなんて、わたくしらしくないのだから。
小さな声で呟いた後、ロザリアは顔を上げて扉をノックした。
「どうぞ」
扉の向こうから響く声に、心臓が跳ね上がるような感覚を覚える。顔を見る前からこんなに取り乱してどうするのよ!と、自分を叱責しながら、ロザリアはゆっくりと扉を開けた。
部屋の主は机に向かって何やら書き物をしていたが、ロザリアが中に足を踏み入れた途端に顔を上げ、少女の瞳をひたと見つめながらわずかに微笑んだ。
「さて、今日のお願い事は何かな、お嬢ちゃん?」
「育成を、お願いいたします」
さきほど決意したばかりなのに、いざオスカーを目の前にすると、やはり真っ直ぐに見つめることが出来なくて、ロザリアはわずかに視線を外した。
だがオスカーはそんなことには気がつかないのか、あるいは興味がないのか、少女の言葉に小さく頷くと、執務机に両肘をついて指であごを撫でてみせた。
「わかった。今夜、君のフェリシアに力を送っておこう」
「よろしくお願いいたします」
――これで、終わり。
これで少なくとも、今日はもう彼に会わなくてすむ。彼の目線の魔力に、惑わされなくてすむ。
ロザリアは深々と頭を下げながら、オスカーには気がつかれないよう小さく安堵の息を漏らした。ゆっくりと身体を起こし「それでは失礼いたします」と告げると、彼女はくるりときびすを返して歩き出した。
「お嬢ちゃん」
不意にかけられた言葉に反応し、ロザリアは立ち止まってわずかに振り返る。と、ロザリアのすぐ後ろに、彼女を見おろして口元に薄い笑みを浮かべているオスカーが立っていた。
思いがけずに間近に迫っていたオスカーを見上げ、ロザリアはびくりと身体を震わせた。と、オスカーがゆっくりと腕を伸ばし、彼女のあごに指をそえて顔を寄せた。
「やっと俺を見てくれたな、お嬢ちゃん」
「オ、オスカーさ、ま」
「どうした……真っ直ぐに見れないほど、俺は怖いか?」
オスカーの問い掛けに、ロザリアはあごを捕らえられながらも必死で首を振った。
「こ、怖くなんか…」
「なら、なぜこんなにも震えている?」
「それ、は」
怖いのは、貴方じゃない。貴方に会うと、ざわめく心。
貴方の、氷海を思わせる瞳に見つめられると、炎のように熱くなる身体。
貴方に触れると、わたくしは変わってしまう。今まで築いたものが、すべて消えてしまいそうになる。
そんな自分が……怖い。
目を伏せて唇をかむロザリアをしばらく見つめ、やがてオスカーは軽く笑うと彼女から手を放した。
「安心するんだな。飛び立つことも出来ない雛鳥に手を出すほど、俺は不自由しちゃいないぜ」
オスカーの言葉が耳に響いた途端、伏し目がちだった少女の眉はきりりと上がり、彼女はすっと顔を上げた。
「それは、つまりわたくしはまだほんの子供だと……そう、おっしゃりたいのですか?」
「ご名答。なるほど、ただの雛鳥ではなさそうだ。……そうだな」
ロザリアが睨みつける前でオスカーは小さく笑うと、上体をほんの少し屈めて彼女の頭にぽんと手を乗せ、青く輝く瞳を覗き込んで片目をつぶってみせた。
「せめて小鳥ぐらいには昇格させてやるよ、愛らしいお嬢ちゃん」
ロザリアは自分の頭の上のオスカーの手をはねのけると、恥じらいからか怒りから来たものか、頬を染めたまま後ずさった。
「そんな称号は結構ですわ! わたくしにはロザリア・デ・カタルヘナという立派な名前がありますもの!」
「ではそのご立派な名前に負けないよう、せいぜい頑張ってくれ。この俺が、思わずぬかづきたくなるレディになるように」
「――失礼いたしますっ!!」
大きな音を立てて扉を閉めていった少女の怒った背中を見送り、オスカーは右手で口元を押さえながらクスクスと笑った。
「そんなに慌てて逃げ出さなくても、お嬢ちゃんに手を出したりしないさ」
――今はまだ……な。