今もなお、彼女の心の中にはあの方がいる。
「幼い少女の憧れよ。もう――思い出だわ」
そう言って、彼女は俺の腕の中で微笑む。
月明かりの下でもわかる薔薇色の頬にそっと唇を落とすと、幸せそうに目を閉じ、やがて眠りの淵に落ちていく。
柔らかい髪を一房、指に搦め捕って顔を寄せると、香水やコロンとは違う、彼女自身の甘い香りが俺の鼻孔をくすぐる。そうしてやっと安心して、改めて彼女の白い肢体を抱きしめ、俺はゆっくりと目を閉じる。
たとえ誰であろうとも、絶対に渡しはしないと心に誓いながら――。
「さすがですね、ジュリアス様」
次の手に困ったオスカーは盤上を睨み、やがて上目遣いに目の前の貴人を見つめた。するとジュリアスは目を細め、口元に微かな笑みを浮かべた。
「降参か?」
「いいえ、まだですよ。ジュリアス様のお顔を拝見すると、まだ手が残っているとおっしゃっているようですので」
負け惜しみともとれるオスカーの言葉にジュリアスは小さく笑い、手元の駒を軽く指ではじいた。
「では時間をやろう。しばし考えてみるがよい」
「ご寛容なお言葉をありがとうございます」
口元に笑みを浮かべると、オスカーは再び盤上に視線を戻し、漆黒の王に迫る乳白色の騎士を睨み付けた。
ジュリアスは、オスカーから窓の外に視線を向けた。暖かい日差しが窓から差し込んでくるのを穏やかに見つめる。カーテンを揺らして吹く心地良い風は、ちょうど昼食がすんで落ち着いた頃合いというのもあって、いつもは厳格なジュリアスも無意識に瞼が落ちてきそうになった。
そして、それを心地良く思っている自分がおかしかったのか、彼の口元にふと笑みが浮かんだ。
「……ジュリアス様?」
名前を呼ばれ、はっとなって正面を向くと、オスカーが怪訝そうにこちらを覗き込んでいる。が、すぐに彼は軽く微笑んだ。
「まだ昼休みはありますし、少しお休みになってはいかがです?」
「いや、大丈夫だ」
うっかりうたた寝をしそうになったのが恥ずかしかったのか、ジュリアスは大げさに咳払いをして椅子に座り直す。そして改めて顔を上げると、先程と寸分も変わっていない盤上に視線を向けて小さく笑った。
「それよりもオスカー、手が思いつかないのであれば素直に降参してはどうだ?」
「ご冗談を。ジュリアス様がお疲れなのではないかと思っただけで、俺はまだまだいけますよ」
「では続きを。お手並み拝見といこう」
ジュリアスの言葉に、オスカーは一瞬押し黙った。が、すぐに目を細めて笑い、自信たっぷりに答えた。
「――受けて立ちましょう」
しかしそうは言ったものの、オスカーにとって形勢が不利なのは変らない。が、今さら「やはり無理です」とも言えずに、オスカーは頭の中で駒を何度も動かして逃げ道を探していた。
この状態で逆転するのは難しいかもしれないが、引き分けに持ち込むことは出来そうな気がしたからだ。
しばらくの間、執務室内を静寂が支配する。やがて微かな衣擦れの音とともにオスカーが身体を動かし、盤上の駒へと手を延ばした時、扉を叩く音が小さく響いた。
「お邪魔してもいいかしら?」
「かまわぬ。入るがよい」
二人の顔が一斉に重厚な扉へと向けられると、数秒遅れて扉が開いた。中に入って来た人物はそこにオスカーが居た事に驚いたのか、ほんの少し目を大きくしたが、すぐに落ち着きを取り戻して、二人が腰掛けているソファへと歩み寄ってくる。
「お休み中のところをお邪魔してごめんなさい。ジュリアスに、一ケ所サインしてもらいたいところがあって…」
言いながら手にしていた封筒をジュリアスに差し出すと、盤上にちらりと視線を落として微笑んだ。
「今回は白馬の王子様が優勢なようね。13勝3敗5引き分けだったかしら?」
「3勝12敗5引き分けだ。――まだ負けちゃいないぜ、補佐官殿」
呟くとオスカーは顔を上げ、ロザリアを見上げて意味ありげに薄く笑った。その微笑みと目線から昨夜の逢瀬を思い出したのか、彼女は頬を染め美しい瞳に艶を浮かべたかと思うと、慌ててオスカーから視線を背けた。
幸いな事にジュリアスは、書類に目を通していたためにロザリアの表情の変化に気付かず、立ち上がると執務机へ向かい、羽ペンを手にして素早くサインをして振り返った。
「見たところ問題はないようだ。さすがだな」
「ありがとうございます」
手渡された書類を改めて封筒に入れると、ロザリアはにこりと微笑む。
「こちらこそ助かりますわ。貴方はいつも迅速に対応して下さるから」
「私は己が成すべき事をしているだけだ。そなたと同じようにな」
ジュリアスは優しく微笑んで答えたが、不意に軽く眉をひそめた。
「ところで、まだ昼休みのはずだが…そなた、昼食はとったのか?」
「いいえ。キリの良い所まで仕事を終わらせてしまおうと思って…」
途端にジュリアスは不機嫌な表情を浮かべ、その表情の変化に戸惑うロザリアを見下ろして口を開いた。
「ロザリア、そなたが真面目で優秀な補佐官である事は認めよう。だがしかし、己の体力を過信するのは禁物だ」
「わ、わたくしは過信など…」
言い返そうとするロザリアの言葉を視線で留まらせ、ジュリアスはなおも険しい表情のまま続ける。
「すべて一人で処理しようと仕事を抱え込むのが慢心ではないと?」
ずばりと言い当てられ、言葉を失ってうつむくロザリアを黙って見つめていたジュリアスだったが、すぐに彼の瞳に優しい光が戻った。
「よいか、そなたは一人ではないのだ。もしそなたが倒れたら陛下はどうなる? それこそ、お一人で全てこなさなくてはならなくなるのだぞ」
言われてロザリアはゆっくりと顔を上げ、ジュリアスの青い瞳をじっと見つめ返した。
「聖殿だけではない、この聖地に住まう者はみな優秀だ。安心して周りに頼るがよい。私を含めて――な」
「ジュリアス……」
ロザリアは小さく呟くと、やがてゆっくりとうなずいた。
「そうですわね。一人で肩ひじを張って頑張らなくてもいいのでしたわね――ありがとう」
「――どうやら、話はまとまったようですね」
ふいに背後から声をかけられ、ロザリアは驚いて後ろを振り返った。そこにはオスカーがチェスの駒を指で弄びながら軽く笑みを浮かべて立っている。
彼はロザリアに小さくウィンクをすると素早く彼女の手を取り、改めてジュリアスに視線を向けた。
「ではジュリアス様、働きづめの補佐官殿の休息に、少しつきあって参ります」
言いながら彼は、手にしていた黒いナイトの駒をジュリアスの執務机の上に乗せながら目を細めた。
「勝負はまだついていませんが……続きは明日という事でいかがですか?」
「まだ続けるのか? もう勝敗は見えているではないか」
「いいえ、まだですよ。まだチェックメイトにはさせません」
「ほう、では……勝てる自信がある、というわけか」
ジュリアスが低く呟くと、オスカーはロザリアの指に自分の指を絡ませてぎゅっと握りしめながら笑った。
「引き分けなど狙いません。俺は…必ず勝つつもりですから」
「……よかろう」
ジュリアスがそう答えると、オスカーは改めて軽く会釈をし、ちらりとロザリアを見下ろして微笑んだ。
「行こう、我が麗しき蒼の姫君。それとも、漆黒の騎士が相手では不足かな?」
「そ、そんなことはありませんわ。貴方と一緒ならきっと楽しいでしょうし」
「これは嬉しい事を言ってくれる。――ではジュリアス様、失礼いたします」
ロザリアを伴って部屋を出るオスカーが、一瞬こちらを振り返った。
その瞳と表情は、ジュリアスがいつも見知っているオスカーではなく「炎の守護聖」としての彼であることに、ジュリアスはまだ気がつかなかった。