「ランディ、風邪をひきますよ」
そう言って微笑みながら、母さんはソファでうたた寝する俺に上着をかけてくれた。
「ん……起きるよ、母さん……」
沈んでいた意識がゆっくりと浮上し、覚醒してくる。うっすらと目を開けると、窓から差し込む夕日の細い光が俺の目を刺した。
「もう…夕方? 俺、どのくらい寝てたんだろ?」
目を擦りながら身体を起こすと、母さんがかけてくれた上着が膝から床に落ちそうになった。それを慌てて押さえようとすると、俺よりも先に目の前の人の手が伸びて上着を取り上げ、俺を見おろしてにっこりと笑った。
「さぁ。ですがわたくしが来た時にはもう、あなたはぐっすり眠っていましたよ」
「リ、リュミエール様っ!?」
驚いて身を乗り出した俺の手から、開いたままの本がずるりと長椅子の上に落ちた。
そうだ。俺、この本を読んでいるうちに、気がついたら意識がなくなって……。
最近は以前より、本を読むことに抵抗がなくなってきていた。いや、むしろ知識を増やせることが楽しくて、このところ頻繁に図書館に通っているくらいだ。だからつい夢中になって、本を読んで夜更かしをする事も増えてきた。
だからって、リュミエール様がいらしているときに眠ってしまうなんて……え、リュミエール様をお呼びしたっけ、俺?
「リュミエール様、あの…」
「はい?」
俺にかけてくれた上着を丁寧にたたみながら(うわぁお客さんになにさせてるんだ俺!)、リュミエール様は振り返った。
「すみません。俺、リュミエール様をお呼びしていたことも忘れて、すっかり眠ってしまって……それで、あの…」
「わたくしはあなたに呼ばれてはおりませんよ、ランディ」
「へ?」
俺が出した声がよほど間抜けに聞えたのだろうか。リュミエール様は一瞬驚いたように目を見張り、それからゆっくりと表情を崩してくすくすと笑いだした。
「ランディ。あなたはどうやら、ここがどこか忘れてしまったようですね」
「え? ってここ、俺の家じゃ……」
そう呟いて辺りを見回し、ここがどこだったかをようやく思い出して息を飲む俺を見たリュミエール様は、目を細めて笑った。
「違いますよ。ここはクラヴィス様のお屋敷の居間です……思い出しましたか?」
「あ、えっっ! そ、そうでしたっっ!!」
叫んで立ち上がった俺は、そこでようやくリュミエール様の肩越しに、眉をひそめて椅子にもたれているクラヴィス様に気がついた。
「……寝ていたほうがおとなしかったものを…そのままにしておけばよかったのだ」
「そうは言っても、あのままでは風邪をひいてしまいますよ。クラヴィス様も、せめて上着ぐらいかけてあげて下されば…」
「あの程度のことで風邪をひくような輩でもあるまい……元気だけが取り柄のようなものだ」
「ひどいですよ、クラヴィス様。それじゃあ、俺は他に取り柄がないみたいじゃないですか」
俺がそう言って口を尖らせると、クラヴィス様はうっすらと目を開けて俺をじっと見据えた。
「……そうではなかったのか?」
「クラヴィス様…」
俺が抗議するより先に、リュミエール様がたしなめるような声をあげた。
まぁ確かに、クラヴィス様の都合も聞かずにいきなり押し掛けて、大騒ぎした揚げ句に長椅子で眠りこけたんじゃ、クラヴィス様じゃなくたって嫌みのひとつも言いたくなるよな。
マルセルやオスカー様に話すと驚かれるんだけれど、俺は女王試験が終わってからも、時々クラヴィス様のお屋敷に遊びに来ている。クラヴィス様は一見とっつきにくいけれど、いつも冷静に物事の先の先を見ることが出来る方で、だから俺はそんなところを見習いたくて、少しでも近づきたくて、こうして時間を見つけてはクラヴィス様のお話を聞きに来ている。
とはいっても、クラヴィス様はやっぱりクラヴィス様なので、余程気が向いた時でなければ「何をしに来た?」と「こんなところまでわざわざ来るとは、暇な事だな…」以外の言葉を言ってくれることはほとんどないから、大抵は俺が一方的にしゃべっている状態だ。
それでも最近は、俺がこうやって私邸に押し掛けても、クラヴィス様は黙って中にいれてくれるようになった。話をする時も、この頃は相槌を打ってくれるようにもなった(とはいっても、軽くうなずいたり「そうか」だの「なるほど、な」だの、ほとんど会話としては成り立っていないんだけど)。
そして今日もほとんど俺が一方的に話したあと、出されたお茶を飲んでいると、クラヴィス様は水晶球に手を伸ばして瞑想を始めてしまった。それを邪魔すると、たちまちいつもよりもさらに機嫌が悪くなることを心得ているので、俺は来る途中で寄った図書館で借りた本を読むことにした。
でも、人の家を訊ねているのに主人を無視して別のことをするのは失礼だって思ったから、「本を読んでてもいいですか?」とは聞いたんだ。そうしたらクラヴィス様は「……好きにするがいい」って鬱陶しそうに手を振ったから、その言葉に甘えることにしたんだけど、それでいつの間にかうたた寝してしまうんだから、これはもう十分に失礼な行為だよな。
「あの…クラヴィス様、すみません。俺、勝手に押しかけたくせに、うっかり眠ってしまったりして…」
俺は改めてクラヴィス様に向き直ると、床がはっきり見えるくらい頭を下げた。
「………」
「………」
「…………」
「……あの…」
クラヴィス様の沈黙は、やっぱり怖い。だから俺は頭をあげられず、下を向いたまま上目遣いでちらりとクラヴィス様を盗み見た。
……うわ、眉間のしわが全然減ってない!
しばらくして、頭の上からリュミエール様の苦笑が聞えた。
「もう、いいのですよ。顔をお上げなさい、ランディ」
「え……でも」
クラヴィス様のしわ、全然減っていませんよ!
「クラヴィス様は、最初から怒ってはおられませんよ。そうですね、いまあまりご機嫌が良くないのは、わたくしの演奏を早くお聴きになりたくて…なのだと思います」
「……リュミエール」
クラヴィス様の低い声にもリュミエール様は動じないようで、俺の肩を軽く叩くと、顔を上げた俺を見てにっこりと微笑まれた。
「ランディ、もしよろしければ、あなたもわたくしの演奏を聴いて下さいませんか? そのあと三人で、夕餉などどうでしょう? わたくしの屋敷のシェフが、最近新しいレシピを覚えたようなのです」
「……リュミエール。私に、お前の屋敷まで足を運べと?」
クラヴィス様が憮然と呟くと、リュミエール様は微笑んだままハープをゆっくりと抱きかかえた。
「闇の守護聖様にご一緒していただけば、夜の闇も違う趣をみせましょう。三人で月夜の散歩というのも、たまにはよろしいでしょう、クラヴィス様?」
そう言うとリュミエール様のハープは、なんとなく懐かしい気分になる曲を奏で始めた。
俺は長椅子に改めて座り直した。そうしてリュミエール様の流れるように動く指先を見つめるうちに、また心地よい眠気がやってきて、今度も俺はそれに逆らわず、ゆっくりと目を閉じた。
たゆたうような意識の中で、クラヴィス様の声が聞えたような気がした。
「……好きにするがいい」